ほぼ進路の確定した高校3年生生との対話 その1 「○○と思ってたけど…」
(高校生からもらった「授業アンケート」への私の感想)


12月26日(月)

このページでは、次のような感想をまとめてみた。

「私は○○と思っていた。でも…」

面白いように、こうした反応が出る。
今までの思い込み。
安易な勘違い。
単に知らずにいたこと。
でも、話を聞いて気づいた…といった感想である。
「気づき」を与えられたことは私の一番の幸せである。
そしてその後の人生は、
あなたが自分の足で歩くのだ。…



講演の依頼は高校1年生からが圧倒的に多い。
早いうちから「働くことの意義」について考えて欲しい、と先生方は考えている。
ただこういうことがあった。

ある高校で行った、全校生徒向けの講演会。
600名近くいた。
私の前には、左側から1年生、2年生、3年生と並んだ。
あれ?と思った。
生徒たちの陣形が「ひし形」になっている。
1年生の後ろの方の顔が見えない。



つまり、学年が上がるほど中退者が増えるということか。
当然のこと、1年生が一番騒がしい。
私としては、気持ちを左側の1年生に全開フルパワーでしゃべった。
なかなか大変な講演だった。

そして話も終わりに差し掛かった頃だった。
とても熱い視線を右側から感じた。
私はしゃべりながら、右側を観察した。
すごい視線だ。
3年生は必死に聞いてくれていた。
しまった、と思った。

私の悪い癖なのだが
どうしても1番態度の悪い奴が気になってしまう。
そうした奴はどこにでもいる。
でも何とかして
そういう奴らをこそ、振り向かせてやろうとしてしまう。
変なプロ意識だ。
それで落ち込んだり、傷ついたりしてしまうのだ。
ぐったりと疲れる。

この講演を機会に思った。
学年はぜひ分けて欲しいと。
高校1年生と3年生では意識がずいぶん違う。
高校側にそうお願いしている。

すると困ったことに3年生からの依頼があまり来ないのだ。
一番リアクションはいいにもかかわらず。
高校3年生では手遅れ、ということなのだろうか。
いやそんなことはない。
高校を卒業したら、もうキャリア教育の機会はないと考えたほうがいい。
大学で行われる多くのキャリア教育は
やる気のない学生そっちのけで行われる。
ボーっとしていると置いていかれる。
(今はそうした大学は減っているとも聞くが)

だからこそ高校3年生への講演は重要だ。
12月に行ったこの講演には、
高校3年生約200名が参加した。
そのうち、フリーター確定が50名だという。
フリーターを頭から否定できない。
彼らの気持ちを少しでも揺さぶりたい。

  「フリーターは職業ではない。
   1つの状態に過ぎない。
   できるだけ早く抜け出す努力をすべきだ。
   与えられた環境で、今できることをすべきだ」

それを伝えようと思った。
実際、25歳を過ぎたフリーターは正社員になれなくなる確率が上がるといわれる。
その危険性を訴えたい。

そうして講演を終えた感想がここにある。
主なものを紹介しながら、私のコメントを述べたい。



「今日の話を聞くまでは…」
1

「今日の話をもっと早くに聞けたら…」

そうしたコメントをよくいただく。
話し手としては嬉しいものであるが
聞き手にとっては複雑だろう。

私は人生とは「気づき」こそがすべてである、と思うようになった。
しかもできるだけ早い「気づき」が。
早い「気づき」のことを「ギフト」と呼ぶ。

しかし困った事がある。
多くの場合、「気づき」は「失敗」の後にやってくる。
気づきと失敗は、一卵性双生児のようなもので
これはセットなのである。

できるだけ多く失敗する。
すると「気づき」がたくさん得られる。
神様が教えてくれるのだ、

 「そっちは違う道だよ。別の道を行ったら」 と。

失敗を恐れてはいけない。
若いうちはむしろ歓迎すべきなのだ。
もちろん、私だって若い頃は失敗を恐れていた。
しかし今はそうは思わない。
失敗から学べる事が必ずある。
そう信じている。
だから失敗は大歓迎だ。
確かに傷つく。
バカにされる。
しかし、そんなものはほんの一瞬だ。
誰も人のことなんて注目していない。
自分だけが自分に対して執念深い。
異様に執着する。
忘れてしまうことだ。

失敗しても、1回1回をリセットする。
もちろん振り返りは必要だが、それよりも大切なことは

 「次いってみよう!」 

の精神だ。

  ※余談だが、今コンピュータがフリーズした。保存をしていなかった。
   一瞬目の前が真っ暗に…。失敗した、というわけだ。
   でも思いなおした。もう一度書き直そう。もしかしたらさっきよりうまく書けるかもしれない
   くよくよしているより、書き出してしまったほうがいい。そんなものだろう)




「今私はフリーターに近づいています…でも…」

「やりたい事が見つからない時は何をすればいいのでしょう」

何かをすればいいのだ。
思考の中に「何か」があるのではない。
実は思考の中には何もない。
行動の中にこそ、「何か」がある。

ただし行動は小さく始めるべきだ。
後戻りができないような大きな行動は避け、
小さくスタートする。
そして小さく失敗する。
つまり、失敗するために行動を起こす。
計画的に失敗するのだ。
これが重要だ。

だいたい、我々は考えすぎる。
つねに失敗を恐れている。

ところでふと思う。
私は18歳のとき何を考えていたかと。
景気がいい時代だったが、特に夢はなかった。
ただサラリーマンになることを思っていた。
そうして仕事をしているうちに、夢や願望が見えてきた。
今の私にははっきりと見える。
仕事をしていると、自分の未知なる能力が現れるときがある。
そのとき道が見える。
というか、「気づく」。
本当はすでにあった道なのかもしれない。
しかし、行動して、あちこちにぶつかってようやく「気づく」でのはないか。
もちろんまだまだ、
今の私には見えない「気づき」がそこら辺に転がっているはずだが…

さらにもう一言。
早急に「答え」だけを求めてはいけない、ということ。
「答え」よりも「質問」が大事だ。
しかも自分自身に「質問」を投げかけることだ。

「今私がすべきことは何だろうか?」
「今私が踏み出すべき第一歩は何だろうか?」


人に聞かず自分の心の奥底に投げかけるのだ。
答えは自分の中にある。
きっとある。

そうして「質問」を投げかけたら
さっさと忘れてデートにでもいけばいい。
あまり深刻にならないほうがいい。
人間は考えすぎる。
フランスの哲学者アランは言っている。
(この人は生涯にわたって教壇に立ち続けた教育者でもある)

 抑うつ病の人には、私はたった1つしか言うことができない。
 『遠くを見よ』と。抑うつ病の人は、ほとんどつねに、読みすぎる人である。
 しかし、人間の目は、そういう近距離のために作られているのではない。
 (中略)自分のことを考えるな、遠くを見よ。


抑うつ病の人に向けたこのアランのことば。
しかしこれは万人へのメッセージだ。

私も実は新入社員時代、抑うつ状態に陥った。
うつ病とまでは行かなかったが。
とにかく頭が回らない。
思考が停止する。
判断ミスが多発する。
叱られることを恐れてビクビクする。
つねに何かを怖がっていた。
(仕事上の大きな失敗がきっかけだったが)

だからうつ病には気をつけるべきだ。
休息や頭の切り替え。
調子のいいときに突っ走らないこと。
うつ病になる人は、躁状態になったときのコントロールがうまくいかない事が多い。
自分にブレーキをかける必要がある。


何か響いてくれたのだろう。
ありがとう。
与えられた環境でできることを行う。
するとそこに見えてくるものがあるはずだ。
どんな環境にも「気づき」は転がっている。
がんばってほしい。

「私の将来の夢は女優…」

私はフリーターを否定していない。
そこが高校生から共感を得ている大きなポイントだろう。
ただ、高校生の知らない様々な情報を提供し、

「知らないって恐ろしい…」

と繰り返すだけだ。

ところで、夢をはっきりと主張できる彼女はすばらしい。
ただ一言いいたい。
あなたはフリーターではない。
女優の卵だ。

「フリーターだけど…」

「フリーターだけど、どりょくしてみようかな??」

このコメントはうれしかった。

○○○だけど…

高校3年のこの時期はもう進路もほとんど決まっている。
でもそうした中で、努力してみようかな、と一瞬でも思ってくれた。
やはりプレゼンテーションは楽しく、分かりやすく、おもしろくすべきだと思う。
そうしたプレゼンがあって、はじめて言いたい事が届く。

もし私が第一声、

「フリーターになんかなっちゃだめだあぁ〜」

といったら、その瞬時に終わる。
高校生たちのシャッターは瞬時に閉まる。
なぜならフリーターは本当に身近な存在なのだ。
彼氏がフリーター、お兄ちゃんがフリーターなんてケースはいっぱいある。
話の構成には気を使う。

またもちろん、「何を」話すかもさることながら
「いかに」話すか。
マルチメディア時代のプレゼンにはこれが重要だ。
ますますマルチメディアの技術を磨く必要性を痛感する。

「フリーターになるつもりでしたが…」

何かにつまづいたとき。
それこそがチャンスだ。
新しい可能性が試されているときだ。
最も暗い闇の中から救いの手が差し伸べられると
神話学者のジョセフ・キャンベルが書いていた。
がんばってほしい。

ただそれには「信じる」こと。
信念こそが、生きる力だ。
ただどうしても信念が長続きしない。
もう少し頑張れば、出口が見えるのに
その手前で息切れしてしまう。
「気づき」と「成長」が手に入らない。
するとどうなるか。
運命はまた試練を課してくる。
必要な「気づき」を得るまでそれは繰り返される。

「なんでおればっかり…」

困難に会うと誰もがそう思う。
確かに、どうしてあの人ばっかり、というケースはある。
しかしその裏にある「大いなる計画」は誰にも解読できない。
それは神様の仕事だろう。
その人は、それほどに期待されているのではないだろうか。
「人の100倍強くなれ」と。

映画やマンガには必ず主人公の前に強力なライバルが出てくる。
あるいは主人公を襲うトラブルは必ず大きい。
それはなぜか。

それはメッセージだ。
「もっと強くなれ」と。
だから主人公が1つの困難を乗り切ると
ライバルはもっと強力になって再挑戦してくる。
そのステージで得るべき「気づき」と「成長」をゲットするまで
その再挑戦は続く。
こうした物語の中から我々は何かを学ばなければならないのだ。


私は大学に行くのだから関係ない。
私は専門学校に行くのだから関係ない。
そういう高校生は多いと思う。

しかし大卒フリーターの比率は実に30%を超えている。
専門学校に進んで専門職についても
もしその専門職に挫折すると、フリーターまっ逆さまだ。
決して他人事ではないのだ。

「進学どうこうの話じゃないので…」

その通りだ。
よい「気づき」を与える事ができたと思う。
キミがキャリア教育を受けるのは、これが最後かもしれないのだから…。


「ちゃんと就職しようと思った」
この一言を聞きたかった。
ありがとう。

10

私は「起点」を作りたいと考えている。
まず正社員。
その上で、何をするか。

私は今年40だが、
私が20歳の頃は共通認識として「まず正社員」という起点があったように思う。
それが今はない。
何もない。

フリーターは実は「自由」ではない。
何でもできるということは何にもできないことに等しい。
ある程度のワクがあったほうが、人間の創造力は刺激される。
それはなぜか。

人間は迷うようにできているからだ。
エネルギーが分散してしまうからだ。

「あれかなあ〜、これかなあ〜」

はっきり言って、迷いを振り放った人間は強い。
不自由さこそが、エネルギーを集約させる。
散らばる必要がないからだ。
だから、どんな環境でも必ずチャンスはある。

中国の言葉に「迷いは鬼だ」というものがある。
よい悪いはともかく、迷うこと自体が悪い、ということだ。
とにかくやってみる。
一歩踏み出すと、一歩踏み出しただけ風景は違って見える。
角の向こうが見えるかもしれない。
脇道が見えるかもしれない。
新しい人にぶつかるかもしれない。
そこから運命が変転するかもしれない。
スタンフォード大学心理学教授のクランボルツは言った。

「キャリアの80%は偶然だ」

ビジネスマン数百名にインタビューした。
「あなたが若い頃、今の自分を想像できましたか?」
それに対し、80%の人が「偶然だ」と答えたという。
自我が強いといわれるアメリカ人でもそうだ。
未来のことはわからない。
決め付けないで、柔軟に未来に対処せよ、とクランボルツは言う。

クランボルツ教授ご自身は、子どものときにメジャーリーガーになるつもりだったという。
それが小学校のときに対戦した剛速球投手の1球に打ちのめされたという。
まっすぐに頭に向かってきた剛速球。
思わずのけぞった。
しかし審判は「ストライク!」のコール。
ボールは激しく曲がった。カーブだった。
それで野球選手をあきらめたという。
そうして始めたテニス。
大学でもテニス部。
たまたま顧問が心理学の教授だった。
そして心理学者になったという。
人生分からないものだ。

またクランボルツ教授はいう。
私たちの人生はすでに不自由な運命のなかにあると。
実はコントロールできるものは限られている。



生まれた場所
人種
最初の友人、学校、上司…

それらは自ら選べないものだ。
ある意味両親だってそうだ。
人間はもともと与えられた環境で適応してきた生き物だ。
そして私たち人類の適応力はすばらしい。
あらゆる生物との生存競争に勝ち残ってきたのだから。

そう、私たちがコントロールできるのは「リアクション(反応)」だけだ。
与えられた環境でどうリアクションするか。
それが唯一コントロールできるものだ。
人生とはもともと受身なのだ。
私たちは挑戦を待っている。
つねに準備しなければならない。
幸運もトラブルも
等しく私たちにやってくる。
そのときどうリアクションするか。

「チャンスの前髪をつかめ」

とよくいわれる。
いつも目覚めていて、よく準備(努力)しているものに
幸運は転がり込む。

11

「わかりやすさ」と「おもしろさ」
この2つの要素は必須だ。
そうでないと高校生のシャッターは閉まる。
表現方法を工夫しないと、響かない。
響かないと、教育効果は得られない。

こうした状況を嘆くことは簡単だ。
しかしこのインターネットの時代において
ますます情報の映像化が加速する。
高校生たちはますます、情報を「受け取るプロ」としての目を磨いていく。
つまらない番組はスポイルされてしまうのだ。

たとえば「音」。
若い人には「音」による訴求は必須だ。
私は思う。
なぜPowerPointのファイル切り替え時にみな音を入れないのだろう。
私は切り替え音は必須だと思う。
メモに熱中していたりすると、画面切り替えに気づかないときがある。
「変わりましたよ」というメッセージは必要だと思う。

しかし「音」に抵抗がある大人は多い。
だから先生方やPTA向けに講演するときはいつも一言断りを入れる。
私は音なしでは講演できない。
それが1つのリズムとテンポになってしまった。

新聞で読んだ事がある。
お笑いの評論家だった。
いわゆるピン芸人の話だった。
ギター侍も、はなわも
あの「ジャーン!」という楽器の音で
「ひとりボケ突っ込み」をしていると。
そうか、なるほど。
そういえば…

私の専門学校の近所に幕張メッセがある。
海外の大物が講演に来る。
かつてオラクルのCEO(最高経営責任者)である、ラリー・エリソンが来た。
聞きに言った。
アメリカ人のプレゼンは大変勉強になった。
文字も、キーワードを巨大に映写すればイメージになることがよくわかった。
また途中で、マーケティングの部長が登場した。
二人で掛け合い漫才みたいなものが始まった。
これが面白かった。
つまり「ボケと突っ込み」だ。
これを利用しようと思った。
それが「ひとりボケ突っ込み」のツール、「音」だったのだ。

「女だからフリーターでもいいやとか思ってたけど…」
12

フリーターは女性が多く、ニートは男性が多いと聞いた事がある。
はっきりとした統計がないのでわからないが、そうかなと思う。
女性の場合、その最も身近なモデルである母親がパートで働いている。
つまりフリーターに抵抗がないのだ。
それでも生涯賃金の差を知って考えを深めてくれた。

「今はフリーターだけど必ず正社員になる!!がんばる!!」というこの女子高生に幸あれ!

「そこまで損でないと思ってたけど…」
13

これが高校生のホンネだと思う。
私の授業に対して次のような意見を受ける事がある。

「もっときちんと働くことの意義を語れ」

しかしこれは現場を知らない人の言葉だ。
実際の現場は違う。
きれいな労働の意義なんて必要ない。
それは一生かけて自分自身で見出すものだ。
第一、当の大人自身がそれを語れない。
自信を持って語れない。
だから説得力がない。
当然のこと、彼らには響かない。

私自身、さんざんこれを繰り返し、挫折してきた。
だから信念を持っていえる。

「人間は損得勘定で生きている」

高校生だけではない。
私たち大人もそうだ。
どうして人間は抽象的な議論が好きなのだろう。
確かに、なにか賢くなった気がするものだ。
でも実用的じゃない。
この高度情報社会では、より具体性が求められている。
行動を促す具体性が。

「大学なんて嫌だと思ったけれど…」
14
 
幸あれ!   
(これひょっとして俺か…?)
 


戻る