キャラバン隊 高校へ (千葉県内の高等学校 高校1年生約320名)

講演風景

10/5(水)午後1時すぎ。

私は4ヶ月ぶりに高校生の前に立っていた。
最近は中学校が多い。
しかも公開授業が多い。

この公開授業というものが
大変なようで、ある意味、そうではなかったりするのだ。
多くの見学者。
複数のテレビカメラ。
生徒は、いやでもまじめにきちんとする。
私の仕事は、彼らの緊張をほぐすことになったりする。
だから、ひとたびテレビカメラに慣れてしまえば
通常の授業よりもスムースだったりするのだ。

それで、今回である。
高校でやる場合には2通りあり、
おしゃべり1つなく統制されている場合と
比較的自由な雰囲気(?)を漂わせている場合と。
今回は後者だった。
しかもマスコミには情報提供しなかった。

これがある意味、普通の状態なのかもしれない。
ただ最近、
水を打ったような状態での授業に慣れていたのでちょっと面食らった。
やはり高校の現場は、重要だ。

ざわついた中で講演を始めた。
全体が沈黙するまで話し始めない、というセオリーは無視した。
きっと静かになるであろう。



ただ、一部でなかなかおしゃべりが止まない。
仕方がないのでみんなにお願いした。

「はい、おしゃべりしている人に言ってあげて。シ〜

そんなことをしながら講演は進む。



授業と違って机もない。
充分な筆記作業はあきらめていた。
だからクイズ解答用紙はシンプルにし、
挙手の仕方も簡単にした。

クイズのときは相談可なので、
ざわついてもいい。
どうせ、「フリーターの声」や「ニート」のパートになれば静まり返るのだ。

案の定、そうだった。
どうして人は

「  」話

に惹かれるのだろう。
人の肉声がよみがえるのだろう。

高校生の前ではリーサルウェポンも披露する。
私の失恋話。
これは間違いなく聞き入ってくれる。
若いときにあれほどつらく、悩ましくかつ恥ずかしかった出来事が
今の私の一番の武器とは。
人生わからないものだ。

そうして最後の「努力と成長」のパートに入る。
私はここが言いたくて授業している。
フリーター・ニートが問題なのじゃない。
「努力」や「忍耐」について、若い人があまりに無関心になってきていることが問題なのだ。

 ちょっとズレてる(カメラが傾いたらしい)

ここに至って、みんなの表情は真剣さが増す。
ただ、同意を求めるように目線を合わせても反応してくれない。
やはり高校だ。
本当はもっと挙手を求めてダメを押したいところもあったのだがスルーした。
通常ならばこう聞く。

「では、僕の今の話を聞いて4ヶ月何かを努力して海馬をだましてみようと思った人、手挙げて!」

今回はその勇気がなかった。
冷や汗をかきつつ終了した。

「やはり高校は厳しいな」

控え室に戻り、今日の反省をしていた。
「あの話を入れた方がよかったんじゃないか」
「順番はあれでよかったのか」
ああだ、こうだ…

と、そのときだ。
今書いたばかりの生徒たちのアンケートが届いた。
毎度の事ながら、みなさんの声が私の唯一のエネルギーの源だ。
今回もそうだった。

ずいぶん、伝わっていた。
みんなじっと固まっていたがやはり響いていた。

授業後のアンケート集計結果 (285名回収)

私にはこの最後の項目が一番大事だ。
「努力の意義」
この言い古された言葉。
たった50分のコミュニケーションではあるが
私の講義が何かのきっかけになってくれれば、と祈る。

ただ1名、

「あの成長曲線のグラフは間違っている。がんばっても成功しない」

という意見があった。
少数であるが、ある。
私はこうした声を聞くと胸が痛む。
きっと、今までさんざん努力を繰り返してきた人なのだろう。

私たちの専門学校にもいる。
全て皆勤。
一生懸命勉強に取り組む。
しかし、結果が出ない。
本当に出ない。
本人は一生懸命なだけに、胸が痛む。

思うに、努力には数式がある。

(努力)=(努力の量)×(努力の方向性)

(努力の量)が10でも、
(努力の方向性)が0や−1だと
掛け算なので、ゼロかマイナスになってしまう。

(努力の方向性)が1にさえなれば、
あとはやればやるだけ、結果になる。
しかしこの、「結果の出る方向性」を知ることは難しい。…





いきなり話が飛ぶが
かえるの役割ってなんだろう?



かえるの努力の方向性はたった1つ。
食べて、鳴いて、メスをつかまえて、子孫を残す。
シンプルだ。
では人間はどうか?



このように全方位だ。
努力の方向性をいずれにすればいいのかわからない。
動物に比べ高度な知能を持った代わりに
人間は「迷う」という宿命も負った。

だから「やってもやっても」うまくいかないことはある。
私は、とりあえず100回、100日という目安を強調しているのだが
もちろんこれには個人差がある。

ところで私の話で恐縮だが、
私は今でこそ、メディアにたくさん取り上げられるようになったが
はじめは門前払いだった。
100日どころではない。
はじめて新聞に載るまでに
実に6ヶ月もかかった。
その間私は試行錯誤を繰り返した。
何度もやめようと思った。
しかし自分の主張を世に問うてみたかった、どうしても。

5/12に朝日新聞に取り上げられると
あとは雪崩のようだった。
そうして今に至る。
だからこう言いたい。



人よりも多く失敗し、
全方位に広がっている道を1つ1つつぶしていく。
そうして1つの方向性をつかめば
あとはきっと結果が出る。
私の授業を受けた高校生諸君は
今一度「努力の意味」をかみ締めて欲しい。
世の中のせいにはしないで欲しい。
社会のせいにはしないで欲しい。
その気持ちはわかる。
しかしひとたび自己正当化をはじめたら、それで進歩は終わる。
若くして早くも、評論家になってしまう。
そうしたことは大人に任せよう。
政治や社会保障の問題だ。
若い人には、
「つねに結果からはじめよう!」
と言いたい。

なぜなら、みなさんは「現役のプレーヤー」だからだ。
プレーヤーはグラウンドで結果を出す。
見ているお客は少ないかもしれない。
でも一生懸命やっていれば、必ずファンが見ている。
誰かが見ている。
それを

「あの判定は納得がいかない」
「ベンチがアホだから…」(懐かしいフレーズだ)

と批判ばかりしていたら…
それは評論家の仕事だ。
グラウンドを去らなければならない。
若くして引退することはさびしいことだ。



よく勘違いされるのだが
私は授業や講演で「フリーターは絶対ダメだ」とは一言も言っていない。
ただ「知らないと怖いね」という事実を淡々と伝えている。

それでもフリーターを選ぶのならば、
あるいは、どうしてもフリーターにしかなれないならそれでもいいじゃないか。
ただフリーターとは固定した職業ではない。
本来、

「女優の卵です」

とか

「職人の見習いです」

というべきものだ。

フリーターとは、1つの状態なのだ。
長く続けるものではない。
(だから企業としても、フリーターへの職業訓練はしっかりやってほしい)

フリーターをするならば、
どうせするならば極めて欲しい。
レジならレジのプロフェッショナルになる。
ついでにコンピュータや簿記まで極めるのだ。
接客なら接客のプロフェッショナルになる。
ついでに心理学の説得技法まで極めるのだ。
そうすれば絶対、光る。
誰かがあなたを見ているはずだ。

案外一生懸命な人は少ないものだ。
だから一生懸命な人は目立つのだ。
メンターは必ずいる。
いなければ求めて欲しい。
心の中で、つよく求めて欲しい。
決してあきらめないで欲しい。

(ただもちろん、どうしてもうまくいかない人は個別指導の領域になる。
 無理をして人生をだめにしないよう、適当な指導者が求められる)

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