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小学校・中学校/音楽科/はじめに/指導要領作成協力委員からの返事がないので世論に訴える檄文/子どもが大切な皆様へ
文責:山本弘

子どもが大切な皆様
義務教育現場の皆様



 義務教育8教科(国語・算数・杜会・理科・音楽・図工・体育・家庭)の中で、1教科だけ、極めて異常な教科があります。何かご存じでしょうか。それは【音楽科】です。
 何を馬鹿なことをと驚かれ、一体、音楽科の何がと不審に思われるでしょう。異常も、130年続くと、人間はその状態に慣れて、異常に感じなくなってしまいます。教育現場に長年勤務していた私も、毎日勤めていてそれに気付かず、一つの転機で否応なくその異常に直面させられ、調べてみると或るは或るは…。
 これから皆様は、私の辿った道を振り返って一緒に、その異常に突き当たって下さい。そして、少しでも早く、正常な姿に戻るようご助力下さるよう、お願いしようとしてこの文を書いています。

 古い話ですが、私は突然、田舎の一都市の小学校から、県の音楽科の指導主事に任命されました。何もわからぬまま手始めに取りかかった仕事が、県の特徴でもある山間の学校での音楽実技講習でした。それまでは、中心の都市へ各地の代表者を集めての講習だけだったのを、此方から一人出かければ、沢山の方が、旅費も使わず好都合だろうと考えたことで大変喜ばれたのですが、講習を終わり、質間の時間になって、私の音楽教育観はひっくり返されました。それは、
「音楽なんて、どうしてもやらなければならないのでしょうか」
 という質問です。私は思わぬ質問にびっくりし、そして当惑しました。と言うのは、先輩の指導主事から、このことに関して次の様な宿題を貰っていたからです。
「わたしが山間の郡の合同音楽会に講師として招待され、その後の反省会の席上で、地元の長老に『わしは音楽なんか何も知らんが、こんなに偉くなった。一体音楽なんて何の役に立つのですか』と聞かれて困ったのやが、君ならどう答える」
 その答えがまだ確立していなかったからでした。ところがその方の事情は、それとは方向が違いました。その先生は今年、市街地の学校から転勤し、まず困ったのが音楽の授業だったという訳です。それまでは長年、町の学校で専科の先生に頼んでいたのに、ここでは頼む人がないというのでした。聞いている他の先生方もニヤニヤして頷いています。その雰囲気に私が、念のため皆さんはと聞いてみると我も我もと同意見。私は改めて教育現場の音楽科のみの異常を意識させられました。勿論こんなことは他教科にはありません。

 皆さん、この話、何か変ではありませんか。義務教育9年間を終えた大人は、どの教科でも小学校の児童の勉強は、相手になって教えられる力を持って卒業するのに、何故、音楽科のみ、手も足も出ないのでしょう。それも教師を志すこの人達は、通常よりその方向の能力は高い筈なのに…さあ、困りました。
 こんなことがあったその夏、教員採用の第一次試がありました。当時はペビープームの時期とて500人前後の志願者があり、小学校課程の音楽科では、春の小川の曲をオルガンで弾くという出題でした。ところが…ところがです。合格は5パーセントもあったでしょうか。片手でメロデーだけでもといってようやく10パーセント位。たいていはオルガンの前へ座りもせず『弾けません』『中学校へ行きますから』『他の先生に音楽は頼みます』…この人達が先生になっていくのですから、前の話も頷けます。
 そんな状況なにのに、合格した中の3パーセント位は、これまた驚くほど素晴らしく、伴奏は勿論ハーモニーも変化させてという念の入れよう。そのギャップはいったい何なのでしょうか。つまり現在の教員は左図のように、他教科では担当する能力があるのに、音楽科だけは9割の人が、担当する能力がないというのです。


 秋になって各地で研究発表会の時期になり、近県の有名な音楽研究校へ参観に行きました。一学級の特別公開授業があり、各学年別に合唱の発表があり、講師の講評は、その労をねぎらいながら、特にと前置きして3年の学級の発表は最もレペルが高かったと賞賛されました。聞いている参観者やPTAの方々も頷いて納得していました。
 何気無いこの出来事にも、義務教育の音楽科として疑問を持ち始めた私には、この事は見過ごしには出来ませんでした。3年しか勉強しなかった子どもたちが6年間も勉強した子どもよりレベルが高くなったというのです。それに音楽教育界は何も疑問を感じないし、世間の人達も納得する音楽教育というのはいったい何なのでしょうか。
 もしこれが算数だったら大間題に発展することでしょう。6年生が掛け算の九々をやっているのに、3年生がそれより遥かに高度な二次方程式を解いているというのです。これは教育関係者ばかりでなく、親達だって黙ってはいません。だが音楽では感心して、参観者も親も頷いているというのです…。

 義務教育の教師である以上、どの教科でも、それが自分の得意・不得意に係わらず、左図のようにその学年で規定された進度は、子どもを育てていく責任があるからこそ積み上げが出来るというのに、音楽科のみは右下図のように、ほとんどの教師が、何を育てれぱよいのかが分からず、教える能力もなく、その教科に得意な少数の先生の組だけが、自分の好みで特訓し、6年生より高度に育ったというのです。しかもそれを、教育関係者も親達も納得して頷いているというのです。


 この矛盾は、全国音楽研究大会に参加してますます深くなりました。研究資料に載せられた実践の殆どが『担任した時はこんなにレペルが低かったのを私が苦労してんなに高めました』的な記述ぱかり、中には『受け持った時には7人も音痴の子がいたのを2年間に直した記録』という勇敢なのもありました。医学的には音痴は5,000人に1人というのに、どうやってその学校は1学級で7人もの音痴を育てたのかと疑いたくなります。そして音楽教育は担任した時が1年生さ』という記述に、日本の音楽教育の現状がすべて網羅されていると感じました。

 ここまでの話で、義務教育としての音楽科の最大欠陥が浮かび上がりました。それは

 1.教科の基礎になる“音楽能力”が育っていない。
 2.その“音楽能力”がはっきりせぬので、それを育てる系統も方法もない。
 3.そのため、子ども一人一人の成長の記録は皆無で、全体での演奏美のみ追求。

 どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。そこで改めて学習指導要領を読み返してみましたが、表現と鑑賞は強調してあリますが、“音楽能力”が何たるかも、育て方の系統も方法も見あたらないのです。これでは積み上げが出来るはずはありません。
 義務教育の素晴らしさは、みんなの子どもをみんなの教師が、組織の力で育てるという点にあります。それはその教科の内容を、学年毎に扱い、子どもが転校しようが教師が代わろうが、責務を果たして引き継ぎすることで成り立っています。でもその責務が音楽科の指導要領には明示してないのです。その証拠に、今までに、次の担任に『この子はカリキュラムのここまで育った』と個々の成長記録を引き継ぎした例が存在したでしょうか。
 これでは何年授業しようとも育たぬわけで、いわゆる《賽の河原》ですから今までの話は全部頷けます。第一、その教科の大綱を決めている【学習指導要領】にないのです…。

 そこでその現状を打開するためにば次のことが必要になります。

 1.育てるべき音楽能力と、その育て方の具体的な系統を明示する。(ひとりひとりの子のものでなければ無意味、それが義務教育ですから)
 2.現在の教師の音楽能カで授業が出来る『具体的授業法』の確立。

 この1は、学習指導要領にないのですから、作るより他に方法はありません。かといって学習指導要領のような「簡単なリズム」「様々なリズム」という表現は、人によって解釈が違い、組織によって積み上げる義務教育ではないに等しいから、誰にでも分かる明確なもの。
(註 もっとも、積み上げを必要とする算数では≪一桁の数の加減≫と的確に指定し、決して、簡単な数とか様々な数などとは書いていません。だからこそ成り立つ)

その2.現在の教師能力では「教える」という方法ではダメ

 こんな時、文部省の実験学校だった「鎌倉小学校」の「発表会」を参観し、次のような具体的な指導法を見せて貰いました。この授業での子どもの生き生きとした動きを見て、教育現場で欲しいのはこれだと思いました。つまり“子ども”に期待するのです。

フレーズ 1.汽笛の擬音“汽車” 切れ目でピッピッピーと合図する
2.指の散歩“うみ”
3.交互唱が出来る“つき” “おうま” “かっこう”等の曲で
リズム 1.速度変化に順応する“くつがなる” =80〜96〜120
2.セッセッセが出来る“うさぎとかめ” “セッセッセ”などの曲で
3.リズム形が聞き分けられる  (1) ○○○V○○○V “ちょうちょ” (1)(2)(3)(2)
 (2) ○○○○○○○V “ぶんぶんぶん” (1)(3)(1)
 (3) ○○○○○○○○ “はとぽっぽ” (1)(2)(2)

 そして帰って、早速その方向で『音楽感覚学年別能力』を作りました。
 次に現在の子どもたちはどんな音楽能力なのか調査することにしました。この能力表に従って実音テストを作成し、まず3年生までの内容を全県下の小学校で実施し、そのデータを送って頂きました。(当時はソノシート、後にテープ)
 これは毎年各学校で実施され、左表のデータは初期3年間16000名の統計です・見事に音楽教育の欠陥を示し、新しい教育方向の必要を示唆してくれました。
 その示唆とは?…

 @ 8教科の中で、1〜6年まで同一問題でテストするものがあるでしょうか。しかもこれは3年生までの内容です。
 A その結果がまた、1年から6年まで大差かないどころか、音楽の主要3要素といわれていたDリズム・Fメロデー・Bハーモニー
 この3項目は6年生まで1段階を越していません。こんな子どもの実態と、前述の教師の音楽能力び実態との上で、義務教育らしい音楽教育は成り立つのでしょうか?その子どもに「美しく表現して感動」させようという無理な要求を、教育現場に押しつけているのが『音楽科の指導要領』なのです。そこで子どもを正常に育てている他の教科を見直してみました。するとこの音楽科の状態を正常に戻すのに役に立つ次の様な手本がありました。


 A.体育…“あそび”のカリキュラムで、どの先生でも扱え、体育の能力である走る力・跳ぶ力・投げる力等々を育てている。(例ドッチボール・サッカー)
 B.国語…“ことば”と“ことば”からフレーズヘ、そして文へと、生活から組み立てていくカリキュラムが音楽教育で成り立つはず。
 C.図画…“子どもなりに楽しめる境地から指導が始まる”自由画の教育観

 音楽科ではすぐ「リズムが・発声が・音程が等々」と、子どもなりの境地を否定するが、図画の教育観はその肯定から始まって好まれている。でも、かっては図画も今の音楽のように、臨画といって手本の真似から入った歴史もあるという。

 このヒントからカリキュラムを作成し、県の指定校へ実践を依頼しました。つまり、指導要領とは反対の教育観でのカリキュラムを標準的教員構成の学校で実践してもらづたのです。その結果は、たった2年で右図のような「能カテスト結果」が出ました。3段階で止まっているのばテストがそこで迄のものであったからで、信じられない参観者のために、会場で6年生の子どもに、参観者の書いてくれた楽譜を初見演奏することで信じてもらった様子は、本文に詳述してあります。今までどこの学校でも国語のように楽譜を読むことは不可能と思われていた義務教育界にです。多分、この子どもたちの音楽能力ば卒業時の6年生は実線の力まで育っていたことでしょう。勿論、教科書の曲は子どもたちだけで合唱奏が可能であることは、次の教師の感想文から想像してください。


 これは当時、【ふしづくりの一本道】として、下記の学校で《義務教育らしい学校体制で、個々の子どもを、義務教育の狙い通り》育てましたが、文部省の指導要領の【教材曲一本立て】と対立するかのような論争を呼び、賛否両論で音楽教育界を二分しました。
 どんな子どもが育ったかは続いてお送りする別冊本文の『小学校指導要領音楽編への意見具申』に詳述してありますので省略しますが、この音楽教育からは、想像を絶する子どもが育ち、半信半疑で年間3000人の教育関係者が、10年の長きに渡って参観を続け『古川詣で』のことぱが生まれた程でした。それはどんな学校だったかを知る一つの文だけ紹介しますので、それを通して【教師が教えている学校】から、今までどこも成し得なかった【子どもが学んでいる学校】へ昇華した様子を想像して下さい。
 これは通常の【教師が教えている学校】の先生が、この【子どもが学んでいる学校】に昇華(敢えてこの表現をします)した古川小学校へ転勤しての感想です。

子どもに教えられた音楽の授業

  藤田耕作

 4月1日、古小での初めての音楽の授業である。過去何回か参観した自分が、今度は授業する立場である。期待と不安とで一杯の気持ちで、ピアノに向かう。ところがピアノを弾いて、『さあこの通り歌おう』と子どもの方を向くと、皆ケゲンそうな顔をしている。そのうちS子が手を挙げて、
 「先生、伴奏は私たち生徒がするんです」
と、不満そうな顔をしていうのである。そこで私は、
「きのう音楽係を決めたばかりだが、弾けるのか」
と、聞くと
「ハイ、弾けます」
 と、いうのでピアノを明げ渡すと、エレクトーン・ピアノ・ピアニカ・ビブラホーンなどで伴奏し、いつ相談したのか指揮者まで出てきて子どもたちで5年生の新ししい教材である『若木の歌』を歌い出すのである。私は仕方がないからその間窓際でまるで他校からの参観者のような顔をして、ポンヤリ眺めているだけである。歌い終わると指揮をしていた子が、
「気の付いたことを発表してください」
 というと、
「この歌は元気のよい歌なので好きです」
「はずむような曲なので、歌っていても、気持ちがいいです」
「歌詞がとてもいい詩で素敵です」
など話し合い、次に、
「この曲で勉強したいこと」
と、司会者がいうと、
「笛で吹けるようにしたい」
「合唱もしたい」
「合う音や、合うふしを付けたい」
 など、いろいろ意見が出て、担任はそっちのけでどんどん授業は進んでいく。歌を覚えると笛、ピアニカをとりだして吹いていく。早く出来た子は、遅い子にいろいろ教えている。そのうちみんな出来てくると、
「次は7音のふしづくりをします。出来たらグループで選んで下さい。時間は10分です」
 というように、どんどん進んでいく。グループで選ぱれた曲を発表し、意見を出し合いアンコール曲を選ぶ。そして司会者が、
「先生、何か意見はあリませんか」
 それまでぼんやり眺めていてやっと我に返り、何を言ったか覚えがないが、いま思い出してもあまりシャンとしたことは言わなかったと恩う。  それが、古川小学校に赴任しての第一回目の音楽の授業である。私の担任した5年3組は4年の終わりに組替えした直後の学級であるから驚きだ。
 過去によく、音楽能力に学年差がないとか、積み上げのできない教科であるとか耳にしたが、前記のことを目の当たりにして、

(1) 学校全体の体制が1年〜6年まで出来ている。いつ、誰が受け持っても、すぐに同じ路線で進められる。
(2) 主体的に学習出来る子どもの構えが出来ている。


 と、いうことの大切さがよく分かった。そこでその日の終わりの会で私は子どもに
「先生は古川小学校の音楽の勉強は1年生、君たちは5年生、先生は来たぱかりでなにも知らないから、先輩の皆さんよろしくお願いします」
 とザックパランに話しかけたのがよかったのか、音楽係を中心に一生懸命に学習を進めていった。
 その子どもたちの姿の中から【音楽の学習は自分たちのもの】という構えがはっきり見られた。教師を当てにはしないが、大事なポイントではちゃんと相談するし、手間のかからない音楽の授業である。馴れるに従って子どもたちの音楽の学習の仕方を見ていると、授業の進め方に一つのパターンがあって、教材では

 1.歌を覚える。
 2.笛・ピアニカ・オルガンで弾く。
 3.合う音・含うふしをつける。

 それと、毎時間のふしづくリ、という展開である。主体的学習において《学習の仕方》を知っているということがいかに大切かということが分かった。
 1年前まで、隣の学校にいて、授業の型だけ真似ていて、その根底にある子どもの主体的な学習の構えを育てていなかったことに気が付いた。

 ・主体的な学習の構えが一人一人身についている。
 ・模葵力がついている。
 ・即輿力がついている。
 ・和音感、調性感がついている。
 ・拍の流れが体の中にある。

 この五つのことを1年から6年まで、全職員の共通理解のもとに協力して出来ることであって、一人の優秀な音楽主任がどんなに頑張っても出来ることではない。
 そして、音楽の力を付けることも大切な目当てであるが、一番大きな狙いは主体的な学習であることがよく分かった。子どもたちの生き生きとした音楽学習の中から思いも寄らないようなリズムや、美しいメロデーが飛び出して来る。音楽の授業というものが、こんなにも楽しく、また楽なものであるとは今まで思わなかった。正に音楽の学習とは、音を楽しむ学習である。

 この授業の背景に伺える学校組織・子どもの学習態度・子どもの音楽能力の凄さは現場の教育者にしか分からないでしょう。人によっては、こんなことは出来る筈がないとその事実を疑う位凄いものです。でも、この資料を送った名簿の方々(学習指導要領作成委員)からは、何の反応もありませんでした。ちなみに、この学校は24学級、全部、学級担任が音楽の授業をしています。そして一般の人事配当の職員構成の成果、つまり正常な義務教育の組織です。

 音楽から子どもを見ている教育観で作成されている現在の“指導要領”の下では、左図左のように6年間、音楽能力の積み上げがゼロであった子どもたちが子どもが音楽を再構成する教育観に変えたカリキュラムで授業すると、自分の歩く道が分かった子どもたちは、自力で前述の授業のように毎年能力を蓄積し、左図右のよに他教科なみに向上を続け得るのです。教師も自分の担任した期間の成長を次の学年へ引き継ぐことで、音楽科もようやく義務教育の仲間入りが可能になるのです。
 こうして音楽科も初めて、130年続いた教育現場の異常が正されるばかりでなく、自立した子どもたちは教育者たちが長年求めて続けて得られなかった『主体性・ひとりひとり・自己実現』という義務教育の願いが、何時の間にか手に入るという方法があったのです。これを文部科学省という大きな組織で研究して貰えないかと願って、資料を別紙名簿の「指導要領作成委員」の方々にお送りしたのですが、完全に無視されてしまいました。
 しかしこのままでは、今後どう改定されようとも、現場の混迷には無関係な(音楽からの要求)だけの改定だと思います。これではますます教育現場から離れて、更に異常になっていくことでしょう。こんな場合、子どもに好まれている体育では、基本になる「体力やや運動能力」さえ育てれば、そこへレスリングが加わろうとサッカーが加わろうと、子どもたちはそれに楽しんで参加し、さらに能力を高めていくと信じてドッヂボール・水泳・野球と子どもに適応する遊びを研究しているのに、音楽教育では、音楽からしか教育を見ていないため、音楽からの要求だけを受け入れて・今以上に「○○音楽だの★★音楽が必要」などと求めるのは、病身の子に更に運動を加える愚に等しいと憂慮しています。
 今まで、こんな現場の異常が続いたということは、多分指導要領作成会義の席上では、教育現場の実態など、一度も語られたことが無いのでしょう。これでは子どもを知らずして教案を立てる愚に等しいと思います。
 こうした考えから指導要領の逆の教育観、子どもが音楽を再構成するカリキュラムで国語教育のように子どもを育てあげると、どうして今まで、あんなに効率が悪かったのかと、不思議に思う位子どもはすくすくと育ちます。読書も作文も当然と思われている国語教育と同じで、作曲も記譜も読譜も可能になった実態は、本文以下お送りする資料やビデオで確認して下さい。これでようやく音楽教育も義務教育らしくなったといえます。敢えて例えれば「文法英語から対話の英語」への変化といえるかも知れません。つまり、指導要領が音楽から子どもを見る文法英語とすれば、ふしづくり教育は、子どもが音楽を再構成する対話の英語(完全な比較ではありませんが)に似ています。
 その観点から見ますと、指導要領の記述に、音楽教育の真の願いを妨げてい重大な誤りの記述があります。これは、変えてみたら子どもが実際に育ったのですから議論の余地はありません。教育では、子ども育つか育たぬかが正否の決め手ですから…。
 その意味で、指導要領には、次のような欠陥があります。

その1.子どもの音楽能力の発達段階毎の特色に気が付かず、その特色に合致した扱いをしていないということです。

 つまり、音楽からの要求のみに忠実だと言ったことの裏付けともいえることですが、下記のように指導要領には低・中・高と、音楽的に子どもが適応できる内容を、同質に考えて機械的に分類してあります。これは大変な間違いで、音楽能力の成長するピークは9才です。(指定校の実践で明確に実証出来ます)この時期を過ぎた子どもたちは、理解は早くてすぐ形を成しますが、能力が定着せず、その後も失敗を繰り返しますが、9才までの子は形を成すまでは少し時間がかかりますが、一旦定着するとそれ以後は再び失敗をしません。これは指定校での多人数の実践データでわかり、改めて音楽家は必ず幼児時代から始めていたということの意味を再確認しました。この大切な時期に表現と鑑賞という指導は、意味がありません。この年代は歌の世界にのめり込んで没頭することと、体育でいう体力や運動能力にあたる【音楽能力】をはぐくむ絶好の年代です。こんな時に左図上のように子どもを第三者的立場へ追いやる“表現”や“鑑賞”などと、1〜6年までを同質にとらえているということは子どもを知らぬ者のやることとしか思えません。


その2.指導要領では、音楽能力とは何かを明確にしていませんが、音楽の三要素と言われているリズム・メロデー・ハーモニーである記述は伺えます。しかしこれは教育的には間違いで、生きている音楽を、縦に切って一旦殺した音楽は、後で合成しても生き返りません。この考えで要素別にそれぞれ系統を立てて訓練して失敗した実践例は枚挙に暇がありません。私自身すべて試みすべて失敗しました。
 本当の音楽能力とは、生きたままの音楽を“音楽ことば”(国語の単語)に区切り、それついて『流れに乗る力・真似する力・再現する力・即興する力・抽出する力を育て、その上に音楽教育の特色としての記譜する力・変奏する力』等々(まだ他に見つかるかも知れません)を加えたものでした。


 こうして音楽を子どもなりに、国語教育のように再構成するシステムで育った子ども達は、作文のように作曲し・記譜し・合奏唱し・合う音、合うふしをつけ、卒業記念の作曲集をかっての文集のようにタイムカプセルに埋める学級まで出現しました。その進歩は目を見張るものがあり、かって音楽の3要素の系統でドリルしていた頃の苦労が虚のようです。その上遊びのカリキュラムですから、子どもの楽しみ方は比較になりせん。

 その3.音楽のみに忠実な教育観から、表現と鑑賞を重視している指導要領の下では、全体の表現美だけが教育の目的となリ、音楽教育からは、義務教育最大の願いである【ひとりひとリとの成長という記録】が、教育現場の全体から姿を消してしまいました。かつての音楽研究校の中で、全校の個の成長を主題にした学校が、一体幾つ存在したことがあったでしようか。(私の知っているのは鎌倉小・温知小・保小・古小という二本立ての学校のみです。)
 授業を公開すれば必ず、少数の特別な学級で特別の先生が特別の子どもを特別の時間に育てたという特別だらけの表現や鑑賞の授業のみ。これは、教員の資質が最も高いといわれている附属小学校でも同じこと。発表する学級は素晴らしくても、隣リの組の音楽の授業は見せられないのが音楽教育界の常識。つまり、音楽能力の積み上げなんて考えたこともないのが当リ前。これを異常と考えていない音楽教育の現状こそ異常ではないでしょうか。
 この教育観からは、NHKの合唱コンクールさえ、各県の僅か数校の限られた異常中の異常な学校のコンクールにしか過きません。


 前述の主張から、県の指定校では、この時期を歌いまくって歌詞を覚え、小学校で300曲を身に付ける生活化を目標で授業を進め、一方ては、別に音楽能力を育てる系統を、遊びの一本道として、子どもは勿論、教師も一緒に“師弟同行”で実践したところ、見違えるような活気に満ちた歌声の授業に変わりました。つまり指導要領の“教材曲一本立て”に対する“ふしつくり一本道”を加えた二本立て教育法です。前者で教育現場のすべてが駄目だったのを、逆の方法で立て直せたので、指導要領を一部見直すよう研究して貰えませんか…という意見具申が無視されたのは、重大な誤りだと申したいのです。

 なお、教育現場の異常を述べてみます。左の図は、県内の或る一郡の音楽研究会が調査した面白いデータで、子どもの教科別の好き・嫌いをアンケートした結果表です。大好きだと思われていた音楽科は?…子どもの嫌いの代名詞と思っていた算数より嫌いなんです。いや、音楽は好きなんですが音楽の授業が嫌いなんです。読者も小学校時代を思い出して見てください。少し歌っては『音程が・声の出し方が・そこは小さく・もう一度・何度言ったら直るんだ等々…』これをカラオケでやったら、翌日からは誰も来なくなるだろうにその揚げ句『楽しかったね』と先生に言われ続けては…。

 本当に楽しい時はそんなことは言わぬものなのに…。更に一曲30秒もかからぬ歌を一回歌っては『何か感じたことはありまんか』などと鑑賞を要求する。仕方がないから、子どもは『○○さんは口を大きくして歌っていたからよかったと思います』なんてピントはずれな返事でお茶を濁す。これも指導要領の影響といえば、そんなことはないと否定されるでしょうが、実態はそうなっています。それは歌のよちよち歩きの時に表現や鑑賞を求めているからです。
 第一、授業の始めから終わりまで、教師独りだけが大活躍している授業って他にありますか。ピアノを弾き・注意し・進行し・指図し…という音楽を、体育に当てはめたら噴飯ものです。先生が投げ・跳び・走り・注意し・進行し…なんて馬鹿らしくて話にもならないことを、音楽の授業では繰り返しているのです。学校教育目標には堂々と『自主性を培い』と述べているのに、これでは教師が居なくなったら後は無法状態、太鼓は破れ、鍵盤ハーモニカは飛び散り、ワアワア、ガヤガヤ…。こんなお客様みたいな子どもの能力が育つはずがありません。何という無駄を130年続けてきたのでしょうか。

 改めて強調します。
【“力”の上には”表現”という技術は乗りますが、技術の上には力は乗リません】
 もう一度お願い致します。指導要領の教育観を教育現場の実態から見直し、最低でも、小学校3年生までの扱いを、子どもの成長にあわせて下さい。


 この意見具申に対して、私の考えが間違っていたら説破して下さい。でなけば現場から指導要領への疑点を質問しますといって、後述の質問を沿えましたが、そのどちらにも対応して頂けませんでした。

学校規模
1年単位の延ぺ数
学校名学級数児童数研究年数教師数児童数
高山小18012360
★温知小18800904,000
大丼小18800361,600
古川小241,0001228812,000
★保小5分の2401080
計5校712,8202343618,040
★印は文部省の実験学校(研究指定校)

 なお、この主張の根拠になっているデータは、単なる思いつきの小規模な実践ではありません。上図表のように、学校数は5校、学校規模は分校を含む僻地校から24学級の大規模校までの各種で、一年単位で積算すると、のべ、児童数は18,040人、教師数は436人、学級数は71、研究年数は23年の記録を整理したものです。


 さらにこのデータばこう思う・こうあるべき・多分そうなるだろう等々と言った単なる予想ではなくて、【こうしたらこうなった】という結果のものです。そして、根拠となる教育観・教育システム・実践中の児童の様子・授業の実態。児童個々の作品・成長記録のすべてをピデオと資料で載せました。一つの教育主張として、起・承・転・結のすべてを完結したものです。なのに、これを無視出来る最高行政者に失望しています。
 そこで、皆様のお力を借りて世論として訴えれば、無視出来ないだろうとこんなお願いをするわけです。この資料は前記のように、長期にわたり、最も正常な学校組織の上で成り立った実践の資料を頂いたもので、しかも、いずれも成功した記録です。

 最後に現行指導要領の教育観について、長い間、絶対的な疑問に感じていた点について述ぺ、この稿を総括したいと思います。それは、当初に述べた先輩の質問の答えです。現在までの義務教育としての音楽教育は、子どもが生きるために何か役に立っていたでしょうか。その答えは《学校音楽、門をいでず》の言葉で十分語っているでしょう。これは、学校音楽すら芸術としての一方的見方しかせず、教育現場へ表現や鑑賞という形て押しつけ続けた欠陥だと思います。
 先日テレビで見たのは、食もなく生命を脅かされ続けている“イラクのクルド人”の集まりの大合唱です。これが今の指導要領の《学校音楽、門をいでず》から生まれるでしょうか。これこそ【何のために音楽をする】の回答だと思いました。私は、
 「わしは音楽なんかなにも知らんが、こんなに偉くなった。音楽なんて何の役に立つか」
の質問に、苦し紛れに今までは、
 「あなたは音楽を知らずにそんなに偉くなったが、もし音楽を知っていたらもっと立派な人間になっていたでしょう」
 と答えようかと思っていたのですが、この凄まじいまでの生命の叫びを画面と声で聞いてからは、表現だの鑑賞だのという前に、体を突き抜ける音楽にすべきだと改めて感じました。
 その観点から次の記事を読んで下さい。

七人の合唱


 岐阜県の北。富山県に近い河合村(現在の飛騨市)に、今はもうダム建設で沈んでしまった「保」という僻地の小部落があった。ここにあった保小学校は、昭和44年度に全国僻地教育研究大会の音楽会場と、文部省の指定校を兼ね、『ふしづくりの一本道』を実践し、素晴らしい子どもを育て上げた。
 当日、山奥の学校というイメージで、平坦地並みにやっていれば立派なものだくらいに思っていた参観者は、59人の全校合唱の瞬間から息をのんだ。迫力ある美しい合唱、教材曲あり、自作曲あり、輪唱あり、器楽のオブリガートあり、伴奏も子どもの指揮も。その上、曲想表現や指揮について誰かが意見を述べると、すぐその子が指名されて指揮台に立ち、自分の考え通りに指揮をする。その度に速度、強弱等タクト通りに変化していく全校の子どもたちの表現能力は素晴らしいの一語に尽きた。
 その後、各教室で行われた授業は、子どもが計画し、子どもが進行し、子どもが表現して、いつもひとりひとりの子どもが土台になっている。高学年では作曲し、記譜し、合う音さがしで対旋律まで付けている。当日の指導者として来られた文部省の真篠先生も、翌日来られた文部省の課長さんへの報告で『全国でこんな例はないでしょう』と言われ、助言の先生方も「言うことがありません」と言っておられたことからも、この子どもたちの素晴らしさが想像して頂けると思う。

 話はこれからが本題である。

 この“ふしづくり”で主体的に音楽することを身につけた子どもたちが、ダム工事の進展につれて、ひとりふたりと離村した頃から、大規模校へ転校したこの僻地の子が今までの通念を破ってその学級のリードをしているという話が耳に入るようになり、そして6ヵ月後、ついに、残る子が7人になった時、私は人事上の視察でその学校を訪問した。僻地のこととて、会議後一泊し、その翌朝、登校して遊んでいる子に、
 「君たちは昨年、立派な発表を聞かせてくれたね。もう一度あの合唱を聴きたいな」
 と声を掛けた。私はその時、それ程期待していたわけではない。というのは、指定校なんて熱病みたいなもので、発表が過ぎれば跡形もない例を、各教科とも数多く見聞きしていたからである。
 ところがその子たちは気軽に『ハイ』と返事をすると、
「オーイ、みんなこいよ」
 と、運動場にいる子らを呼び集め、全校7人、誰がこの曲はタクト、誰が伴奏、曲は誰の作った曲にするか、習ったあの歌か、君は2年生だから高音、僕は低音等等、指揮者が代わり伴奏者が代わり、迫力のある合唱を約一時間、教科書も歌集も見ないで歌い続けてくれた。そうなると私たちに聴かせているのではなく、完全に自分たちの生活である。そのうち先生も来て加わり、私たちも加わり、この7人の合唱に参加しているうちに目頭が熱くなった。
 この子たちは、コンクール選手のように多数の中から選ばれたものでもなければ、家庭の生活水準が高い家でもなく、ただ、ダム補償のもつれから家庭の事情で離村の遅れた7人だから、学年もバラバラ、IQもバラバラ、それなのにこの7人の合唱の美しさ。音楽生活の根強さ。
 これこそ本当の音楽教育の成果である。この姿は、過去のような受け身の音楽教育からは、絶対に育たないものである。もし、この学校が従来のように、ただ教材を教師が教え込む方向の研究だったら別の姿、つまり教師中心で、子どもはロボットのようにあしらわれた発表になっていただろう。従って、発表会後の今、私の頼みに対し、気弱な眼差しで拒絶する、ありふれた山の素朴な7人の子どもでしかなかっただろう。だが、この子たちは、自分が音楽する“ふしづくり”の教育であったからそこ、この7人の合唱が可能になったのである。
 ふしづくりの一本道は、よく基礎づくりやドリルと同じ意味に誤解されやすいが、実は教育の方向が180度指導要領とは逆なのである。この子たちの“7人の合唱”を目の当たりにしては、子どもが音楽を再構成する“ふしづくり”でなければこの異常な音楽科の体質改善は有り得ないと確信している。

 この後に引き続いて、学習指導要領協力委員の方々へお送りしました【小学校学習指導要領音楽編への意見具申】の本文以下、その主旨を詳述した追加文(第2便第3便第4便第5便第6便第7便)を順次お届けいたします。

 ここで、改めて読者の皆様にお願いいたします。
 お読み下さって、私の論に間違いがあったら、ご指摘下さい。
 もし、もっともだと思われたら、文部科学省へ向かって『次の質問にまともに答えて、協力してやれ』と助言してやって下さい。


 長々と有難うございました。

 この資料を送りました協力委員の方の名簿は、別紙です。

指導要領への質問


その1.指導要領は何故“独立曲”の一本立てにこだわるのですか。(音楽能力を育てるのには、価値がないと思われるのに)

その2.音楽科で積み上げるぺき“音楽能カ”とは何ですか。

その3.指導要領では低(1,2)中(3,4)高(5,6)の3分割にしてあリますが、その理由は何ですか。子どもの成長特性からは『1・2・3』『4・5・6』であるべきと思いますが。

その4.教材曲一本立てで、子どもの音楽能力を育てる方法はありますか?

その5.協カ委員の方々が、この指導要領に沿って『授業案』を書いた場合、他の先生と、学校組織として何か積み上げるものが存在しますか?教材は「うみ」とします。(ふしづくリなら6年分書けます。そして子どもか運営します。)

その6.義務教育音楽科のいびつな責任は、指導要領の“教材曲一本立て”ににあると思っています。反論して下さい。



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