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山本弘

先行経験とは


 音楽は子どもを教育するための手段であるはずなのに、いつの間にかその手段であるべき音楽の系統が目的化されて、子どもをいためつけている。
 ひとりの子どもが音楽の系統のどこかを指導されているとき、それをこなせば優秀児、できなければ駄目な子になるなどは、その系統の方に無理があるかどうかを全然考えられていない証拠である。
 この場合、たいせつなのは、教材からその系統が生まれたから子どもをその系統という、まな板にのせるということではなくて、その子がそれ以前に、その系統を可能にするような先行経験をしてきたかどうかということである。

 たとえぱ、音楽のカリキュラムの“汽車”という教材になった。
 カリキュラムを調べると、キラキラ星や日の丸では、という4分音符の指導がされ、たなばたの曲ではの8分音符が指導され、さんぽの曲では、が指導されているので、この“汽車”という教材では、というリズムがとり上げられ指導するようになっている。
 ところが何度うたっても、にならないで、とスキップリズムができない。
 この組の子は、どうしてこんなにリズム音痴が多いのだろう。
 さてはの区別を理解していないのだな。
 音楽美を正しく表現するためにはここでしっかりしなくてはと説明とドリルがはじまる。

 さあ、はタッカ、はタタですよ。
 よく見なさい。違うでしょう。
 まだまだだめ。
 もっとするどくはずんで(このへんから音程がなくなって、リズム読みだけ、つまり音楽でなくなってしまっていることに気がつかない)。
 はXでタッカ、はXでタタ、少しおそく読みましょう。わかりましたか
 はい、もういちど……あーあ、どうしてわからないのかな。
 は、3/4と1/4で長さが違うでしょう。
 は、1/2と1/2ですよ…。
 これでもだめか。
 は前が0.75であとが0.25で大ちがいでしょう……。

 もう音楽でなく、算数の時間になってしまっている。

 なるほど教師からみれば、カリキュラムの要求するを正しく指導するのが汽車という教材のねらいであり(これ自体にも問題があるが)、それをこのときおさえておかないと、責任が果たせぬという切迫感があるかもしれない。
 しかし、少なくともこの姿は、音楽教育ではない。
 何度直しても説明しても、が、になるということは、それができないか子どもが要求しないことかのどちらかであり、その子たちがそれまでにそれを可能とする生活、つまり、で生活し、で遊んで自分の能カとするような先行経験がなかったということである。
 だから今、のドリルや説明をすることより、その先行経験を誰が、どこで、いつさせるようなカリキュラムをつくることの方がはるかにたいせつなことである。

 これには反論もあろう。
 今までに、の教材はたなばたで、の教材はさんぽで扱ってきたのだと。
 しかしそれは、単なる生活上の経験であって、能力を積み上げるステップに役立つ先行経験ではない。
 何百という曲をうたってきたからそれに内蔵するリズム、メロディー、ハーモニー、拍子等等が、すべて育つものなら、今さら系統などと騒ぐ必要もないことで、それが不可能だからこそ教育の体系が重視されるのである。
 教育として必要なのは、そのいくつかの経験の中から、能力として積み上げのできるようなの能力化、の能力化ができる経験の場をもつことである。
 6年かかっても、いや中学になって、いや大人になってもとの使いわけのできない1350時間の音楽教育にはどんな欠陥があったのだろう。
 もし、この子に汽車という曲をつくらせたら、と歌い出したろうし、そしてそれがまた絶対的により劣るということも断言できないかもしれない。

 本人の立場からは、これを先行経験の体系で育てれば、わけのないことである。

 “汽車”を歌ったら、が不明瞭であった。
 ああそうか、この子たちはを区別する段階を不完全に通ってしまったらしい。
 そうなら、もういちどカリキュラムの前へもどってを区別する遊びをやろう。

 さあ皆さん。
 スキップでおどりましょう。(曲はさんぽのようなのリズムを使用)
 片足とぴですよ。よくあうね。
 グループで手をつないでおどろうか(感覚のにぶい子をお互いの反応で育てあう)。
 うまいうまい。
 じゃ今度は、かけあしをやろう。(たなぱたのようなの曲を使用)
 ほう、みんなできるね。
 ○○のグループはピッタリだね。(反応を敏感に意繊させる)
 今度はね、歩いてみよう。(きらきら星のようなの曲を使用)
 これもうまいぞ。
 さあてと。今度は、先生が途中で曲のリズムをかえるけど、みんなうまくあわせれるかな。

 (きらきら星などのの曲で行進、途中フレーズごとにに変奏。
 だんだん慣れるにしたがって7レーズの半分ぐらいまでリズム変化し、反応を敏感にしていく。
 なお、グループ樽成を考え、リズム感のにぶい子と敏感な子を組合わせて反応させ、劣等児をつくらないように配慮する)

 いよいよできたね。
 きょうの“汽車”の曲は、はじめスキップをひとつとんで、あとかけ足をしようね。
 「いいまは」のところがスキップだね。そうそう片足とぴのスキップとかけ足だね。


 これで見事にができる。

 こうして子どもの経験を身体反応で意識し、能力として積み上げのできる“先行経験”に育てていく。
 この子たちは、一生のうち二度とを混同することもないし、進んで自分の意志で、を使いわけていく生活が可能になるのである。
 音楽上の必要から“汽車”という教材でというリズムを教え込む方向は前者のように、説明と理解そしてドリル・感覚訓練という方向になるから、頭の悪い子は感覚がよくても理解ができない教育になり、先行経験の累積としてで生活し、で遊び、知識でなく身体で反応すると後者のように感覚能力として育っていく。

 こんなとき、教師は「どちらでもができればよい」という考え方をする人があるが、これはとんでもないことである。
 第一に、理解とドリルは嫌いだという絶対条件があるし、第二に“汽車”の曲から、のリズム指導というのは、教師側の一方的要求だということである。
 子どもは別に汽車の曲は、ではじまらなくてもいいのであって、何度直しても、になるということは、この子たちは、を望んでいないとみていい。
 こんなとき教師は、すぐ将来のリズム感養成のため、今は嫌がってもここで徹底的にドリルするというけれど、でじゅうぷんとしか感じていない子には実に苦痛である。
 本当は、もでき、もできて、両方やってみて、やっぱりの方がいいなという感覚が育ってからの間題なのであって、嫌でもドリルする方向ではひどい話である。
 大人なら我漫できないだろう。
 煙草が将来、身体に悪いと百も承知でやめられないのだから。

先行経験の系統(できたの系統)
理解の系統(わかったの系統)
1.顔まで水に浸すことができた。
2.水中で目が開けられた。
3.犬かきで身体が浮いた。
4.平泳ぎができた。
1.人は水より比重が軽いと分かった。
2.呼吸は口ですることが分かった。
3.足は蛙足がよいと分かった。
4.手は水平にかくのが平泳ぎだ。

 この両カリキュラム実施上の比較で著しい差は、子どもの喜び方のちがいである。
 嫌々ドリルさせられ、目から理解させられている前者にくらべて、後者の先行経験の方は、踊ったり、はねたり、曲に合わせて身体反応したり、うたったり実に楽しい。
 間違えても、前者のように頭が悪いと叱られるのでなく、友だちと手をつなぎ、肩を組んで反応するなかで知らぬうちに育ってしまう。
 次に、先行経験の系統と理解の系続を、“平泳ぎ”という題材で対比しよう。
 拙著『音楽教育の診断と俸質改善』(明治図書)16ぺ一ジにかいたように、理解は忘却で後戻りするが、能力は着くまでは苦労するが、一度ついたら一生の宝である。
 その上、理解という道程を一度通す習慣をつけてしまうと行動とか反応の間に、頭が入ってきて、考えるだけ遅くなり、いつまで経ってもぎこちない動作になって積み上げが不可能になってしまう。


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