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1.「ふしづくりの一本道」は方法論であって、教師に音楽力が無くても、子どもを信じて同行二人の心境で一緒に遊ぶ授業を続ければ、カリキュラムそのものに育つ内容があるのだから音楽能力の積み上げができる。(指定校5校とも成功) 2.しかし、古川小学校のような『全校体制』のできる環境でないと子どもの音楽能力の積み上げができないので、その効果は半減する。 3.音楽能力の成長限度の9歳を過ぎてから始めると、その効果は著しく低下する。 4.グループ学習がその成果を大きく左右するのではないだろうか? |
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この場合の柳の枝を教材にみたて、授業に当てはめてみると、幾つかの問題がはっきりしていくる。小野道風は傘をさして、右図のように柳の枝に蛙が飛びつくのを見ていた。幸いその蛙にはその柳の枝の高さが、自分の能力に適していたのだろう、懸命に何度も飛び続け、最後に成功して道風を発奮させてくれた。この話、蛙が成功してくれて本当によかったと思う。もし、ダメだったらと・・・ これを授業に見立てると、幸い成功したB蛙はよかったが、A蛙は無関心・C蛙は逃避・D蛙はお荷物・E蛙は、一度で飛びついてしまって、やることが無くなって手持ち無沙汰のいたずらっ子。 それでもなお教師は本日の教材を理解させようと躍起になっているのが現在の授業ではなかろうか。そして教師の目はBは良い子、Aは先走って邪魔する子、CDEはやる気のない困った子となって、B以外の大部分の子はダメな子になってしまう。
学習とは次の条件を満たすものであるべきだ。 (1) 行く先がわかり (2) 行く方法がわかり (3) ひとりで歩ける (4) 自分なりにその価値判断が出来る 子どもは一見似た顔・形をしているが、何をするにもそれに対する能力の尺度を持っている。それは知能であったり体力であったり、時には人間性であったりと神様は実に味のある特色を人間の個性として備えて下さったものと感心させられる。この雑多な個性を前にして教師の苦悩が始まる。 つまりこの先生は、知らぬうちに一斉授業で多くの子どもを悪い子にしてしまっているのだ。 第一、お互いが近くて逃避出来ず、お客様で過ごせなくなって否応なく主人公の時間が長くなる。 第二に活動する個の時間が長くなる。 第三に子ども同士の人間性の触れ合いが多くなる。 一斉授業ではこの余る力と足らぬ力が、教師の困る原因なのに、グループ指導で助け合えば、強力な学習の推進力となるのだ。余る力で足らぬ力を補うからなど、浅い考え方では困る。『習う』『教える』という行動が、ともに、一斉授業で得られない『子どもの主体性』を養い、その結果『自己実現』に結びつくのである。 こう思うと、近頃の学校の荒れる原因が解るような気がする。問題があるとすぐ道徳教育や生徒指導のあり方が問われている。それらは勿論大切であるが、前述のような視点で“授業そのものが、子どもの人格を左右している”ことに気が付いている人は少ない。学校生活の大部分は授業なのである。そこで子どもを傷付けておいて僅か週1〜2時間の道徳ぐらいで治そうなんて、とんでもない話なのである。 その意味で、前述の中家校長の自分史の“授業法”を全校で変えたことによって、“その結果いじめ・不登校・暴力(けんか)がすっかり無くなったのです”の言葉は、現在の義務教育観に対する貴重な提言だと思う。 しかしこの言葉の重要性が解る教師は多くはないだろう。そこでこの関係を、具体的に探求してみよう。 授業と子どもの人格形成
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