小学校学習指導要領音楽編への意見具申

/小学校・中学校/音楽科/小学校学習指導要領音楽編への意見具申/第6便/子どもの変化の原因を探る〜戦後教育の闇に迫る〜
山本弘

子どもの変化の原因を探る
〜戦後教育の闇に迫る〜


 話がそれました。前に戻ります。
 参観者を案内した時の様子が度重なると、私も今までおぼろげに感じていたことが段々鮮明になってきました。
 “温知小学校の発表会の日の校長室の酒”
 “古川小学校の子どもの学習姿に見入る参観者の眼”
 “発表会の児童作品の音楽劇に涙して校長を取り囲んで「この流れはどうか消さないで下さい」と握手する参観者”などなど。
 そういえば私も随分全国の有名な学校を参観する場に恵まれ、その高度な表現に感心はしましたが、授業や発表に胸のこみあげる思いをしたことがありません。
 この自己実現をした子どもたちの動きは何か違うのです。
 私はこれらのことに気がついて以来、子どもの変化の原因をつかめれば、「ふしづくり」による古川小学校の常識外れの効果も信じてもらえると思い、実技講習で納得してもらえる根拠を懸命に探し、「ふしづくり」の功罪を整理して見ました。

1.「ふしづくりの一本道」は方法論であって、教師に音楽力が無くても、子どもを信じて同行二人の心境で一緒に遊ぶ授業を続ければ、カリキュラムそのものに育つ内容があるのだから音楽能力の積み上げができる。(指定校5校とも成功)
2.しかし、古川小学校のような『全校体制』のできる環境でないと子どもの音楽能力の積み上げができないので、その効果は半減する。
3.音楽能力の成長限度の9歳を過ぎてから始めると、その効果は著しく低下する。
4.グループ学習がその成果を大きく左右するのではないだろうか?

 この4項目が、義務教育のあり方に影響が大きいような気がしていろいろな角度から考えてみることにしました。まず一斉指導とグループ指導の違いです。
 (註 以降は自著書よりの転記で、実技講習に資料として使ったものを、そのまま使った失礼を悪しからずお許し下さい。こうした思考過程を知って頂きたく載せました。)

 下図は大正生まれの私達老人の小学校時代、修身という教科で習った出世物語である。平安時代、小野道風という書家がいた。藤原佐里・藤原行成とともに、天下の三筆とたたえられた書道の大家で、中国の王義之の書風を基本にして日本化し、和風書道の創始者といわれている人であるが、若い時代修行に行き詰って書を捨てようとした時、ふと道端の柳の枝に飛びついている蛙が、何十回となく失敗したあげくとうとう成功したのを見て発奮し、遂に事を成し遂げたという話である。
 この場合の柳の枝を教材にみたて、授業に当てはめてみると、幾つかの問題がはっきりしていくる。小野道風は傘をさして、右図のように柳の枝に蛙が飛びつくのを見ていた。幸いその蛙にはその柳の枝の高さが、自分の能力に適していたのだろう、懸命に何度も飛び続け、最後に成功して道風を発奮させてくれた。この話、蛙が成功してくれて本当によかったと思う。もし、ダメだったらと・・・


 更に思う。そこにはその蛙が一匹だけだったろうか。いやもっといただろう。下のようにいろいろの蛙が・・・
 これを授業に見立てると、幸い成功したB蛙はよかったが、A蛙は無関心・C蛙は逃避・D蛙はお荷物・E蛙は、一度で飛びついてしまって、やることが無くなって手持ち無沙汰のいたずらっ子。
 それでもなお教師は本日の教材を理解させようと躍起になっているのが現在の授業ではなかろうか。そして教師の目はBは良い子、Aは先走って邪魔する子、CDEはやる気のない困った子となって、B以外の大部分の子はダメな子になってしまう。


 音楽科ではその上に、力の無い子に力の無い先生が表現という技術を教えようとしているのだ。現在の音楽の授業が左図のように“子どもも教師も算数より嫌う理由”がよく判る。私は、能力の種種雑多な子ども達に、一定の問題を出す一斉授業というものに、根本的な疑問を持ち続けていた。しかもその最たるものが音楽の授業なのである。それ歌え、そこがおかしい、もう一度等等、教師がハンドルを握って連れ回すバス旅行のように、すべてが教師の匙加減一つ、従って行き先も・内容も・方法も・進行も教師が握り、教師がいなければ始まらないし終わりもしない。これで主体性だのひとりひとりだのと言う方がおかしいのだ。
 学習とは次の条件を満たすものであるべきだ。

 (1) 行く先がわかり
 (2) 行く方法がわかり
 (3) ひとりで歩ける
 (4) 自分なりにその価値判断が出来る

 子どもは一見似た顔・形をしているが、何をするにもそれに対する能力の尺度を持っている。それは知能であったり体力であったり、時には人間性であったりと神様は実に味のある特色を人間の個性として備えて下さったものと感心させられる。この雑多な個性を前にして教師の苦悩が始まる。
 能率よく教材をマスターさせるには、中間の5の程度ではどうだろうかと発問する。@の子はぴったりで、懸命に努力するから、教師から見ると“良い子”になるが、CEFHは、レベルが高すぎて手も足も出なくて、やる気の無い子に見られるし、逆にDやGは、問題が簡単過ぎてつまらないから、暇にまかせてちょっかいを出すいたずらっ子の烙印をおされてしまう。それではと出題のレベル5を4にしようが6にしようが、出来る子とつまらぬ子の比率が変わるだけ、不適応の子どもは無くならない。
 つまりこの先生は、知らぬうちに一斉授業で多くの子どもを悪い子にしてしまっているのだ。
 これを左図の蛙先生は、三つのグループに分けて、教え合いの場を作ってやったのである。力の余る子が助けてやり、不足する子が習うだけでなく、教える子は教えることでなお深く勉強するし、習う子は自分から言い出さなければならないから、一斉授業の時のように大勢の陰にかくれている訳にもいかず、いやでも“主体性”が必要になってくる。
 第一、お互いが近くて逃避出来ず、お客様で過ごせなくなって否応なく主人公の時間が長くなる。
 第二に活動する個の時間が長くなる。
 第三に子ども同士の人間性の触れ合いが多くなる。
 一斉授業ではこの余る力と足らぬ力が、教師の困る原因なのに、グループ指導で助け合えば、強力な学習の推進力となるのだ。余る力で足らぬ力を補うからなど、浅い考え方では困る。『習う』『教える』という行動が、ともに、一斉授業で得られない『子どもの主体性』を養い、その結果『自己実現』に結びつくのである。
 こう思うと、近頃の学校の荒れる原因が解るような気がする。問題があるとすぐ道徳教育や生徒指導のあり方が問われている。それらは勿論大切であるが、前述のような視点で“授業そのものが、子どもの人格を左右している”ことに気が付いている人は少ない。学校生活の大部分は授業なのである。そこで子どもを傷付けておいて僅か週1〜2時間の道徳ぐらいで治そうなんて、とんでもない話なのである。
 その意味で、前述の中家校長の自分史の“授業法”を全校で変えたことによって、“その結果いじめ・不登校・暴力(けんか)がすっかり無くなったのです”の言葉は、現在の義務教育観に対する貴重な提言だと思う。
 しかしこの言葉の重要性が解る教師は多くはないだろう。そこでこの関係を、具体的に探求してみよう。

 授業と子どもの人格形成

 ここに6年生1週間の時間表@がある(旧指導要領)。何の変哲もない時間表ではあるが。児童と教師の教科の好き嫌い調査Aを当てはめるとBの図表になる。一般の児童がこんなプレッシャーを受け続けて、一週間の学校生活をを過ごしているとは誰も思っていない。平均的能力の児童がこれだから、劣等児と言われる児童は正に真っ黒の一週間なのである。これでは学校が荒れるのは無理が無い。これがCのように6年間続くのだから“授業が子どもの人格形成に与える影響の大きさ”が分かると思う。

 この古川小学校の『授業方法の改善によって子どもの変化』は、戦後の教育のあり方に強烈な示唆を含んでいると思います。それを申し上げたくて長々とここまで述べてきました。
 “権威のある指導要領”に、この“すじはずれ”の進言は、無視されるかも知れませんが、教育現場の実践としては余りにも消え去るのが惜しい実績です。誰か心ある人に拾って貰えないかを心頼みに敢えて申し上げます。



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